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2016年04月27日

奄美の哲学者

うがみんしょーらん。DEI事務局の【もちごめ】です。

シリーズ開始宣言をしておきながら、いきなり番外編を書いた後(番外編はこちら→☆)、一度も投稿していない「報告書で巡る奄美文化遺産の旅」なんですが、、、

どこから始めようかイロイロ迷ってまして。
4月の始め、気分出そうと「サウチ遺跡」へ行ってみました。
奄美の哲学者

「崎原サウチ遺跡入口」と書かれた立派な標識。
マツノト遺跡の木製の標識が朽ち果てそうなのとはエライ違いです。

「報告書で巡る~」第一回目はこのサウチ遺跡にしようかと思ったら、面白いものを見つけてしまったので、まずはそのご紹介。
それにしても遺跡周辺の除草作業しないのかな。
奄美の哲学者


元気よく育っている雑草だらけの小路を、ハブにおびえながら入っていくと、、、
奄美の哲学者


奄美の哲学者
奄美の哲学者


奄美の哲学者

遺跡の包含層が露出しています。
弥生時代頃の貝殻とか土器片とかを横目に見ながら進むと、何かのモニュメントがありました。
奄美の哲学者


奄美の哲学者


眼鏡の紳士、どなた?
奄美の哲学者


奄美が生んだ哲学者、牧野周吉さんだそうです。
銅版に「崎原の歴史」、「牧野周吉」を説明した文章があるのですが、文字が消えかかっていて読みにくい。
奄美の哲学者


せっかくのなので、「牧野周吉」さんの説明を全文書き写してきました。記事の最後に紹介しておきます。
その他の文章も、完全に読めなくなってしまう前に、そのうち書き写しておこうと思います。

この「哲学の碑」って、笠利町(今は奄美市だけど)の文化財には指定されてないんですね。観光案内にもほとんど紹介されてません。

牧野周吉さんという哲学者についても、まわりで話題になったことないなあ。銅板の説明文を読むとけっこうスゴイ人っぽいけど。
もしかして、「歴史の表舞台から葬られた伝説の人物」みたいな人でしょうか。

そこで、笠利町中央公民館の図書室へ行ってみました。
地元の哲学者なら、地元の図書室に著書があるかもしれません。

「あのー、牧野周吉さんの本はありますかあ?」
最近は公民館の図書室も電算化されて、受付のパソコンで蔵書検索ができるようなので、聞いてみました。
「この間寄贈された本を、つい2~3日前に配架したのがあるはずですよ」
職員さん即答!さすがです。

さっそく借りてきました。しかし、なんというタイミング!
奄美の哲学者

「冒険主義者」 
奄美の哲学者

発行日: 2016年1月発行
著者: 牧野周吉
編者: 乃木周成
発行者: 牧野記念館

奄美の哲学者

「平成28年3月14日 牧野博至氏より寄贈」

哲学者の書いた本なので、どんなに難しいのかと身構えてページを開いたのですが、なんとも読みやすい自伝小説でした。

内容は、銅板に書かれている牧野周吉さんの人生をそのまま小説にしたかのようで、銅板を読んだ際には意味のよくわからなかったことなんかも、コレを読めばよくわかります。

あくまで小説なので、あまくま(あっちこっち)脚色はしてるとは思いますが、作品中の事件や出来事はほぼ事実のようで、また、地元の地名やら当時の著名人などもでてきてなかなか面白くよめました。泉芳朗さんも出てきます。

以下、銅板に彫り込まれている文章です。
(黒字のカッコ内は【もちごめ】の注です)

牧野周吉(一八九六年~一九八一年)

牧野周吉は父権六、母ニワの二男として明治廿九年(29年)元旦にこの埼原に生まれた。幼い頃から自然現象に興味を持ち、疑問を抱いて成長した。手花部小から赤木名高等課に学び奥江六郎先生に薫陶を受け、師の得意とする天文・地文へ進展していった。大正四年手花部校教員の時初めてパウルゼンの「哲学要綱」と出会い、哲学に進む事を決意した。その後山下校長の許で、職員会は哲学・地学の講義に変わった。八年退職、上京して体を害し帰郷。療養の間に南島時報に「新教育へのコペルニクス的転回」という評論を連載し、好評を博した。十年赤木名校に戻り、原口守国初め同僚と哲学・教育学の論争が日課となった。翌十一年に文検修身科に合格し、後進に道を開いた。十三年廿八才(28歳)で節田小校長になった。当時笠利村村政が乱れ、十五年に校長を辞め、村政浄化運動にのり出し、その影響は今も残っている。昭和七年「生命への哲学的奮闘」著し、学徒達の反響を呼んだ。三度(みたび)教職に戻り、九年に坂嶺校、十四年阿木名校、十六年に用安小校長を最後に上京。府立三南在職の十七年に旧制高校教授哲学科検定試験に合格、奄美では最初で最後の人となった。十八年に都視学(*)となり学童疎開を断行し、多くの命を救った。終戦の年に不治の難病を克服し、視学を辞し、生活苦とたたかい乍ら(ながら)西田哲学の研究を初め、同哲学の言葉の魔術(矛盾)を発見し、廿八年(28年)に「西田哲学との対決」を著し、学会に大きな波紋を投げた。廿六(26年)年日本復帰懇談会の会長に推され、山元・川上・平・山田・四元民等と共に労組や民主団体と連携を深め、広範囲な国民運動へ前進させた。昭和三十年代には「カントの平和論」について書き、四十年代は埼原での大魚釣りの小説に取り組んだが、意にそぐわず未完の了つた。昭和五十六年五月四日、八十五才でこの世を去った。牧野哲学は奄美での体験から生まれた理論と実践の哲学である。故に世の多くの人々に影響を与え、永遠に語りつがれるであろう。奄美の生んだ偉大な哲学者牧野周吉を記念して、我々はここに哲学碑を建立する。
昭和五十八年八月十五日 牧野哲学碑建立委員会


*視学というのは、当時の教育長のような役職みたいです。かなりの権限があったみたい。

「冒険主義者」を読むと、哲学者として、また教育者としての使命感から、シマでも内地でも先進的な言動で大暴れした様子が伺えます。
「弁証法哲学」を実生活に応用し、教育では当時の日本では考えられないような「生徒本位」を主張し実践した、大島笠利町出身の偉人。
「歴史から消された感」の漂う牧野周吉さん、もうちょっと調べてみたいところです。

^じ^







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