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2016年03月18日

解説・赤木名城③

うがみんしょーらん。DEI事務局の【もちごめ】です。
さて、赤木名城解説の③です。
ようやく「中世山城」についてのお話になります。

そろそろ飽きてきましたか。
この辺で切り上げられるよう、がんばります。

前回までの記事はこちら
→①
→②

「赤木名グスクあるけあるけ」はこちら
→あるけ①
→あるけ②

では、つづき始めまーす。

解説・赤木名城③





前回のおさらいをさらっとすると、

赤木名城・第一期の時代背景
(11世紀後半~12世紀前半)

平安末期から鎌倉幕府成立前後、イクサに敗れた武士集団の南下

それが引き金となって、奄美・琉球諸島の社会変化
☆縄文的採取社会から、鉄器・家畜を伴った農耕社会を基盤とした階層社会
☆また、商品(カムィヤキ)の生産と交易を行う組織と、その指導者の存在
☆後にグスク(赤木名の場合は中世的山城)へと発展する山地利用の開始

と言うことでした。
あれ、こんな簡単なことだったんだ。
前回、結構苦労して書いたんだけどな。

参考として、「奄美の平家伝説」や「沖縄の為朝伝説」などを紹介しました。
伝説はあくまでも伝説なんですが、こうした伝説が有効に機能するだけの何等かの理由があるんでしょうか。

しかし、奄美・琉球の社会変化のきっかけや推進力になったのは、平氏や源氏等の武士だけではなさそうです。
という話も交えて進めたいところですが、、、

あと前回書いてないんですけど、
いわゆる「グスク時代前夜」なわけですが、奄美の場合はそれ以前、「グスク時代前夜」の前夜にあたる「兼久式時代(7~11世紀)」にヤコウガイ交易を通じて、琉球よりも早く社会の変化が起きてるっぽいんですよね。

琉球が、ヤマトの落武者の南下→農耕を基盤とした階層社会、となる11~12世紀より以前に、奄美ではすでに九州のヤマトや大陸と交易したり朝貢したりする社会ができていたんじゃないかってことですね。

そのあたりも含めて、東アジアという枠組みのなかで後ほど覗いてみたいと思います。
って、そこまで首突っ込むと、また更新速度が遅くなりそうですが。

さてさて、続き始めましょう。

2回の元寇(13世紀;1274年・1281年)をなんとか乗り切ったものの幕府はお疲れモード。
活躍した武士たちは、外国相手の戦争なのでご褒美無いもんだからご機嫌ナナメ。
一方、承久の乱(じょうきゅうのらん;1221年)以降すっかり影響力の低下した朝廷。

幕府もお上もヨレヨレなので、「悪党」やら「海賊(水軍)」なんかも跋扈します。

そんな時、自分の子孫の皇位継承権を否定された後醍醐天皇が、不満たらたらの武士勢力や悪党・海賊衆などをけしかけて倒幕運動を展開。
すったもんだのあげく鎌倉幕府を倒すも(1333年)、ここで大活躍した足利尊氏が反旗を翻し京都の室町にて幕府を開き光明天皇を擁立(1336年)。

後醍醐さんは落ち込むどころか、その顔をあげて新しい風に心を洗いながら(古いな~、わかるかな~)奈良に下って抵抗しておよそ50年、ヤマトは南朝・北朝に分かれての内乱状態に。
「南北町時代(14世紀;1336年~1392年)」ですね。
世は荒れています。

こうした社会状況の中で「中世山城」が造られだすようです。

なんで山城かっていうと、鎌倉時代の武士と言えば「騎兵隊」です。馬に乗って敵に切り込んでいくわけです。弓矢も使いますが、鉄砲はまだありません。
そんでもって、敵の大将を討ち取るか生け捕りにすればゲームオーバー。

逆に、敵が攻めてきたら山に逃げちゃえってのが山城の始まりだそうで。
確かに馬じゃ山を攻めるのは難しそう。
無理して突入すると、待ち構えていた相手側の総攻撃を受けたりします。

こんな風に、イクサになったら山に逃げ込む。
イクサが終われば麓の町に戻るというのがお城の始り。

さあその後、14世紀後半には一応南北統一がなり、室町幕府も安定期に入ると思いきや、15世紀半ばに8代将軍・足利義政の跡継ぎ問題から話はコジれて、各地の有力者(守護大名)を巻き込んでの10年にわたる内乱状態(応仁の乱:1467~1477年)。
その後世の中はさらに乱れて「戦国時代」へと突入します。

日本中でイクサが日常になって来ると、単に天然の地形を利用した、イクサの時に逃げ込むだけのお城ではなく、いくつもの「堀切:ほりきり」や「土塁:どるい」で敵の侵入を阻止したり、侵入してきた敵を真横から反撃するための用地=「横矢:よこや」を作ったりと、いろいろ工夫しだすわけです。

尾根上を平地に造成した「曲輪:くるわ」に見張り台や武器を保管する倉庫を作り、斜面を急峻に削り取り「切岸:きりぎし」としたりと、いわば恒久的な防御施設としての「山城」が確立されていきます。

赤木名グスクあるけあるけ」に参加した方は「ああ、アレね!」って思いだしましたか。

そして、その後300年ほどにわたって、日本中にこうした「中世山城」が築かれるようになります。
この「中世山城」は、各地の豪族やら武士やら、ほんの10数戸の村の領主までもが作っていたため、膨大な数になるんだそうです。
一説には3万とも4万ともいわれます。

血筋や権威に頼らず、実力のあるモノが力づくでのし上がり領主となりうる「下剋上」の世、まさに、日本中に「お山の大将」が現れるわけです。
(ところが、天皇や貴族は城を構えないのが日本中世の特徴なんだそうで)

「史跡・赤木名城跡」の、中世城郭としてのメイン構築物はまさにこの時代に築かれたと考えられています。

赤木名城・第二期14世紀後半~15世紀代


どんなふうに築いたのか、「史跡赤木名城跡保存管理計画書(奄美市教育委員会・2015年)」から一部抜粋します。

「城跡は北から南に張り出す丘陵尾根上に立地し、南北約300mあり、奄美地域においては屈指の規模をもち、城郭の縄張り、構造は九州などの山城と類似する。城郭は尾根筋を遮断する連続堀切によって、大きく南北に分けられる。北の区域は標高100mの最高点を中心とし、主郭と思われる曲輪西側には土塁が伴い、その外側裾には石積みが施されている。西側斜面には3条の堀切が連続し、その先端は竪掘りとなる。主郭北辺には連続掘切で仕切られ、さらに2条の堀切で北川背後の尾根と分断している。この区域より低い南の区域は、相対的に広い曲輪が展開する。その中心部には高さ2mほどの切岸によって区画された、二つの大きな曲輪が南北に二つ並ぶ。南の低い曲輪は東西30m、南北40mと広く、建物の存在も予想される。二つの曲輪の西側斜面には8段に及ぶ帯曲輪が連続し、さらに竪堀が配されている。これらの曲輪や竪堀の配置からみると、西側に対する防御を意識していることがうかがえる。」


と、こうなるわけです。
「どんなお城なの?」という問いへの回答としてはこうなるんでしょうけどね。
「最初からコレだけ書いときゃいいじゃん!」って思う人、いるでしょうね。
スイマセンです。

でもですね、実は【もちごめ】、コレを読んでもさっぱりイメージ湧かなかったんです。
コレ以外にも、赤木名城跡に関する報告書とかパンフレットとか、どれを読んでも、なんだかさっぱりわかんないんですよ。
「山城と似てる」って言われても、「山城って?」とか「中世?」とか。
「『曲輪』ってなんて読むの?」とか。

それで、そのへんのところも確認しながらうだうだ書いてるわけなんです。

因みに上記文章内の「縄張り」は「なわばり」と読みます。そのまんまです。
「城の設計プラン」くらいに読み替えておけばOK。
「帯曲輪」は「おびくるわ」。
細長く帯状に造成した平地です。
「竪堀」は「たてほり」で、山の上下方向に掘りを作ったり、谷間の勾配をさらに急にして、横から回り込んで来る敵を防ぐんだそうです。

で、話戻ると、
「曲輪」からは掘立柱建造物の柱穴の跡や、中国・明代の「竜泉窯系青磁雷文帯椀(りゅうせんようけいせいじらいもんたいわん)」など14~15世紀頃の青磁が出土しています。

また、赤木名城の主部だと思われる「曲輪1」の土壌からはコメやムギ、アワ・キビ(さとうきびじゃないよ)などの穀類が見つかっています。
「プラントオパール定量分析法」の結果、コメに関してはかなり高密度で検出されており、多くの稲わらが持ち込まれていると推定されています。
奄美のこの時期以前の遺跡からは、明確な農耕の証拠となるようなモノは出土してないんでしたよね。
(ちょっと自信ない)

さて、琉球はこの頃になるといくつかの文献に登場してきます。

各地で名乗りを上げた按司(あじ:有力者とか支配者とか?)達がグスクを築いて互いに抗争します。グスク時代の到来です。
やがて、琉球本島の3大有力按司→山北(今帰仁グスク)・中山(浦添グスク)・山南(島尻大里グスク?)が覇権を争う三山鼎立時代、この時代にはそれぞれの按司が独自に中国(明)と交易をしている記録があります。

3大有力按司以外にも、各地にはまだまだその地を治める按司達が世に出るチャンスをうかがっています。
その中の一人、南部の佐敷から出た尚巴志(しょうはし)が山南を落とし、次いで中山を破り、ついに1422年北山を倒し本島統一します。
琉球王朝の誕生です。

次々と周辺の島々を制圧した琉球王朝は、15世紀中ごろには奄美大島まで平定しますが、そのお隣の喜界島はカンタンに落ちません。
10世紀頃にはすでにヤマト勢力の南方経営拠点として機能していたらしい喜界島です。強いです。
奄美大島が琉球に下ってのち、さらに10年ほど喜界島は抵抗し続けます。

15世紀代・16世紀初頭までに数度にわたり、琉球勢力とヤマト勢力の軍事衝突が大島や喜界島で発生していますが、この紛争との関わりの中で「中世山城」的な赤木名城が築かれたのではないかとも考えられています。

「赤木名城跡はこの時期の琉球・奄美・日本の政治・軍事・経済的な関係を考える上で極めて重要な遺跡である」と言われる所以ですね。

誰が言ってるって、そりゃ文化庁の偉いお方が赤木名城を国指定史跡にする時に仰ったんですよ。きっと。
あ、もしかしたら、国の指定を受けるために、奄美市側がアピールして言ったのかな?

となると、やっぱりこの時期の喜界島についても観てみないとですね。
「城遺跡群」の発掘調査報告書がたしか宇宿貝塚にあったような。

そういえば、前回喜界島の事書くの忘れてました!
為朝伝説から喜界島の話に移ろうと思ってたんだけど。

結局今回で解決できませんでした。
でもとりあえず、このシリーズ一旦終了します。
なんだか、とても終われそうにありません、、、

書き残したコト
 喜界島のこと
 沖縄のグスク
 徳之島のカムィヤキ
 長崎の滑石と石鍋
 赤木名以外の奄美のグスク
 中国を中心とした東アジアの動き
 元寇・倭寇・海賊・家船
 小氷期・気候変動
 貨幣経済の発達
 「赤木名城・第三期」

^じ^;





タグ :赤木名城跡

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この記事へのコメント
ゆみさん、どうも。

いや~、改めて読み直してみるとなかなか薄っぺらい内容でガックリです。

とりあえず年度末で他の仕事もあるので、この記事はここで終わるつもりです。
どなたか、もっとちゃんとした記事投稿してくれませんかね。
σ(^じ^;)

それにしても、喜界島気になりますねえ。
徳之島のカムィヤキも。

^じ^
Posted by DEIDEI at 2016年03月19日 09:05
こんにちは。

なるほど、奄美は境界にあったと考えられるのですね。
琉球から見れば北端、ヤマトから見れば南端という。

そこでさまざまな衝突や交流があったということでしょうか。
興味深いです。

喜界島には今年こそ行こうと思っているので、レポート楽しみにしています。
Posted by amayunamayun at 2016年03月18日 19:25
コメントありがっさまりょん。よーりよーり待ちくりんしょれ!
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