2016年02月11日
解説・赤木名城①
「赤木名グスクあるけあるけ」の続きなんですが、
その前に、「赤木名城」に関する解説を少し。
今まで「赤木名グスク」という名称で親しまれていた(と思うけど)、赤木名中学校裏の「カミヤマ」。
史蹟名称としては「赤木名城跡」(あかきなじょうあと)となっています。
「赤木名城跡」っていうくらいですから、お城の跡なんですね。
お城といっても、時代劇に出てくるようなお城(天守閣)を想像してはいけません。
小高い山の地形を活かしつつ、敵からの攻撃を防御したり、反撃するためにアレコレ造成してあるんです。
日本ではこうした「山城」が鎌倉時代以降、地方豪族や武士たちによってあっちこっちに造られていくんですね。
で、調査の結果赤木名の「カミヤマ」はこの「日本中世の山城」としての性格が濃厚だったわけです。
「琉球における『グスク』の奄美バージョン」という見立てでは、とらえきなくなっちゃった。
なので、赤木名は「グスク」じゃなくて「じょう」になっちゃったという訳。
「でも地元住民は『赤木名グスク』と言う名で親しんできたのだから、『グスク』のままでいいじゃないか」という意見もあったようです。
それに、あとで書きますが(書けるかなσ(^も^;))、赤木名の「カミヤマ」は、「日本の中世の山城」って枠でも収めきれない様でもありますし。
ところが「グスク」という名称自体が、その使われ方に幅がありすぎるようで(墓所・拝所などの聖域、按司の居城・要塞、防御的集落などなど)、専門家の間でも「グスク」という概念について明確な合意がなされてないらしいんです。
一方で、現在確認できる赤木名のカミヤマにある遺跡は「いかにも日本中世の山城的じゃないか!」ということでその名称も「赤木名城跡」の方がすっきりしてて、専門家的にはわかりやすいのかもしれませんね。
で、
① いつできたの?
② 誰のお城?
③ どんなお城?
てなコトを少し解説したいのですが、
はっきり言って、よくわかりません!
よくわかってないみたいです。
赤木名城にかぎらず、先史時代より中世・近世にまで、実はまだまだわからないことが多い奄美なんですね。
わからないから、その分アレコレ想像して愉しむ余地が多いとも言えますが。
ただ、想像するにしても、ナンデモカンデモ好き勝手に想像したり妄想するわけにはいきません。
あくまで、調査結果によって明らかになったコトや、該当する時代背景等を基にして想像を膨らませなくちゃいけませんので。
「古代妄想」の作法でございます。
なので解説というより、赤木名城について、今までの調査で分かったことや、そこから想定されていることを少しだけ紹介したいと思います。
前置き長くてスイマセン^じ^;
では、始めます。
①いつのお城?
ハイ、これがいきなりめんどくさい。
その前に、「赤木名城」に関する解説を少し。
今まで「赤木名グスク」という名称で親しまれていた(と思うけど)、赤木名中学校裏の「カミヤマ」。
史蹟名称としては「赤木名城跡」(あかきなじょうあと)となっています。
「赤木名城跡」っていうくらいですから、お城の跡なんですね。
お城といっても、時代劇に出てくるようなお城(天守閣)を想像してはいけません。
小高い山の地形を活かしつつ、敵からの攻撃を防御したり、反撃するためにアレコレ造成してあるんです。
日本ではこうした「山城」が鎌倉時代以降、地方豪族や武士たちによってあっちこっちに造られていくんですね。
で、調査の結果赤木名の「カミヤマ」はこの「日本中世の山城」としての性格が濃厚だったわけです。
「琉球における『グスク』の奄美バージョン」という見立てでは、とらえきなくなっちゃった。
なので、赤木名は「グスク」じゃなくて「じょう」になっちゃったという訳。
「でも地元住民は『赤木名グスク』と言う名で親しんできたのだから、『グスク』のままでいいじゃないか」という意見もあったようです。
それに、あとで書きますが(書けるかなσ(^も^;))、赤木名の「カミヤマ」は、「日本の中世の山城」って枠でも収めきれない様でもありますし。
ところが「グスク」という名称自体が、その使われ方に幅がありすぎるようで(墓所・拝所などの聖域、按司の居城・要塞、防御的集落などなど)、専門家の間でも「グスク」という概念について明確な合意がなされてないらしいんです。
一方で、現在確認できる赤木名のカミヤマにある遺跡は「いかにも日本中世の山城的じゃないか!」ということでその名称も「赤木名城跡」の方がすっきりしてて、専門家的にはわかりやすいのかもしれませんね。
で、
① いつできたの?
② 誰のお城?
③ どんなお城?
てなコトを少し解説したいのですが、
はっきり言って、よくわかりません!
よくわかってないみたいです。
赤木名城にかぎらず、先史時代より中世・近世にまで、実はまだまだわからないことが多い奄美なんですね。
わからないから、その分アレコレ想像して愉しむ余地が多いとも言えますが。
ただ、想像するにしても、ナンデモカンデモ好き勝手に想像したり妄想するわけにはいきません。
あくまで、調査結果によって明らかになったコトや、該当する時代背景等を基にして想像を膨らませなくちゃいけませんので。
「古代妄想」の作法でございます。
なので解説というより、赤木名城について、今までの調査で分かったことや、そこから想定されていることを少しだけ紹介したいと思います。
前置き長くてスイマセン^じ^;
では、始めます。
①いつのお城?
ハイ、これがいきなりめんどくさい。
現在赤木名城跡と呼ばれているあたりは、いろんな時代にいろんな主体(という言い方もヘンだけど)によって、いろんな使われ方をしてたらしい。
大まかにみると、調査によって出土したカムィヤキや中国の青磁・白磁類から次の3つの時代に利用されていたと推定されています。
a) 11世紀後半~12世紀前半
この頃から構築され始めた。
b) 14世紀後半~15世紀代
「赤木名城」として中核となる構築物が形成された。
当然、当時は別の呼び方だったんでしょうけど。
c) 17世紀後半~18世紀前半
上記b)の時期に造られた城跡を再利用して、ほぼ現在見られる形態に整備された。
この3つの時代は、あくまで「お城」的な(もしくはグスク的)利用をしていた時期で、当然この前後にもこの土地は利用はされています。
旧石器時代や、昭和20年代頃までの畑利用とか。
でも「赤木名城跡」としては概ねこの3つの時代が重要。
かと言って、時代ごとの城郭としての構造や変遷について解明されているわけではありません。
長くなったので、以下続きます。
コメントありがっさまりょん。よーりよーり待ちくりんしょれ!